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コラム

2014-04-16

再会・其の弐

再会・其の弐

一九九五年三月二十六日 日曜日
その日は、春だというのに、いやに底冷え
のする日だった。私は家路を急ぐ人達の雑踏
の中の一人だった。いつもの信号で捕まり、
空を仰ぎ見ると、目に水滴が入ってきた。ア
スファルトに黒いしみが幾つも出来た頃、信
号が変わった。
私は、足早に駆けていく人々の、都会の時
計よりワンテンポ遅れて歩きだし、途中、取
り壊し中の雑居ビルの一角で一息つき、マル
ボロに火をつけた。
マッチの火の向こうに、古ぼけた酒場の看
板が見えたのは、その時だった。
マルボロの紫煙と、大通りに煙る雨の向こ
うに、その酒場の扉があった。以前にもあっ
たような、街の風景と、セピア色をした酒場
の扉。
私は、吸い込まれるようにして扉を開いた。
静かな店内には、微かに、ビリー・ホリ
デーの『月夜の小舟』が流れていた。
目の前のカウンターに近づくと、バーテン
ダーが現れて、私にスポーツタオルを差し出
した。バーテンダーの表情は、そのスポーツ
タオルと同じ様な乾いたものだった。私がカ
ウンターに肘を突くと、そのバーテンダーが
近寄ってきた。
私がジンのストレートを注文すると、バー
テンダーは、冷凍庫から霜のついたゴードン
・ドライ・ジンの瓶を取り出し、キリッと凍
りついたショットグラスに、なみなみと注い
だ。 ビリー・ホリデーの唱声から、レス
ター・ヤングのソロに変わった頃、私は、二
杯目のゴードン・ドライ・ジンを相手にし、
バーテンダーに、チェイサーを頼んだ。ちょ
うどその時、店の扉が開き、外の雨音と共
に、二人の男性客が入ってきた。一人は、口
ひげをたくわえているが、こざっぱりした髪
の中肉中背の男、もう一人は、グローブのよ
うな手と、岩のような背中の大男である。
二人はカウンターに近づき、スツールに腰
掛けると、まず、口ひげの男が、胸のポケッ
トから、煙草を一本取り出し、ジッポのライ
ターで火をつけた。ジッポのオイルの匂いと
ラークの甘い香りが店内に広がった。する
と、岩のような大男は、カウンターに無造作
にキャメルの箱を投げ出し、煙草を一本くわ
え、慣れた手つきで、カウンターを使い、棒
マッチで、火をつけた。そして、キャメルの
男が最初に口を開いた。
「ブランデーをくれ。コニャックだ。グラン
ドシャンパーニュ物。ジャンフィーユのセプ
ドールでいい。」
すると、カウンターの端を止まり木にした
ラークの愛煙家が言った。
「僕は、サイドカーを。」
サイドカー……。私がサイドカーに出会っ
たのはいつだっただろう。あの頃の私の知っ
ていたカクテルの名は、今知る星座の名の数
より少なかった。この街にティーンエイ
ジャーが溢れ、ファーストフードの乱立する
以前、この街は、割烹や料亭の街だったとい
う。日本料理ばかりでなく、古くからやって
いた西洋酒場も賑わっていたという話だ。そ
の頃の名残を残す酒場の店先も段々数が減
り、原色の街に変わりかけた、そんな街で私
はサイドカーを知った。
「サイドカーか。いいね、シェークの基本的
で最高のカクテルだ。お前さん、ミカドって
いうのは知っているかい。テネシーワルツ
は、ジン&シンはどうだ。」
キャメルの男がジャンフィーユを一気にあお
ると言った。
ラークの男は静かにカクテル・グラスをカ
ウンターに置くと返した。
「さあ、飲んだ事はないな。カクテル・ブッ
クを開けば作り方は解るだろう。」
「俺は味を知っている。色もだ。そういえば
この前、飲んだメイドンフラッシュっていう
奴も良かったな。お前さんは、どれだけのカ
クテルを知っているんだい。」
「さぁね、今朝、食べた朝食のメニューも覚
えていないのに、そんな事考えたことない
な。それより今は、夕べ飲んだ酒代の支払い
の事で頭が痛いよ。しかし、あんたは変わら
ないな。」
「何がだい。」
「人間が肉眼で見える星の数が千。通常、世
界で使われているカクテルが五千といわれて
いるそうだ。新旧交替して、消えていったカ
クテル、新しいカクテルも含めると、無限の
数だ。星の数以上のカクテルたち。知らない
物の方が多いさ。」
「俺は探究心が旺盛なんだ。お前さんが、百
のカクテルを知っているとしたら、俺は二百
以上、三百近いかな。」
「それは凄いな。ベテランのプロ・バーテン
ダー並だ。」
「実は、転職も考えているんだ。」
「それは進めないな。カクテルの処方なんて
ものは、解らなければ、カクテル・ブックを
見ればいい。それをうまく造るコツを心得て
いるのがプロなのさ。しかも、バーテンダー
の仕事は、時には、酔っ払いの相手もしなく
ちゃいけない。あんたは、客に飲ますより、
自分で呑んでいる方が良さそうだ。僕は、こ
のまま無責任な客でいいよ。」
二人の会話を聞いているのか、どうか、
バーテンダーは、苦笑いとも、何ともつかぬ
笑みを浮かべながら、黙々と、グラスを磨い
ていた。
ラークの男は、いつの間にかバーボンを相
手にしていた。そして、ソーダ水のチェイ
サーを頼んだ後、キャメルの男に向かって話
を続けた。
「自分の知っているカクテルの数を自慢する
のは、昔、あんたが酒の味なんて関係なく、
呑んだ量を自慢していたのと、変わらない事
さ。スノップ気分になり、超ドライのマ
ティー二を通のふりして飲むのとよく似てい
るよ。」
「なるほどな。しかし、おいしい物を追求
し、出会った時の、嬉しさが好きなんだ。」
キャメルの男も、いつの間にかバーボンを
相手にしていた。そして、肉屋の店先にぶら
下がっている腸詰めのソーセージのような人
差し指を一本かざして、ショット・グラスを
バーテンダーに差し出した。バーテンダー
は、黙ってメーカーズ・マークを注ぎ入れ
た。そこには、バーテンダーと客の間に、
ゆっくりと時間が流れ、無言の呼吸の会話が
あった。
ラークの男のジッポの音が静かな店内で響
き、甘い香りと紫煙が流れた。
「いい酒、うまい酒っていう奴は、いい飲み
方っていう事さ。例えば、議論は、酒の味を
台無しにするし、独りで飲る酒に、味わいが
あるのは、そういう事さ。」
「ああ、それに、しょせん嗜好品だからな、
煙草と一緒で、飲み慣れたのに、落ち着くん
だ。俺も、女は一人いりゃ十分だしな。」
キャメルの男が空のグラスをカウンターに置
いた。ラークの男は、キャメルの男に聞い
た。
「あんた、バーボンは何がいい。」
「俺は、普段はジム・ビームに決めている
よ。」
「一杯、ご馳走しようか。」
「いや、酒場で奴は飲らないのさ。俺のオ
フィスのデスクには、いつも奴がキープして
あるからな。さしずめ、俺の悪友は、ジム・
ビームだな。それに、最後の酒は、オールド
・ファションと決めているんだ。」
「誰にでも大切にしている一杯っていう奴は
あるものさ。特に一日の最後の一杯はね。僕
は最後には、ブッカーズを飲るのさ。こいつ
には、いくら身銭を切っても満足がいくから
ね。」
二人は黙ってグラスを傾けた。
私の方といえば、最後の一杯のつもりで注
文した、ゴードン・ドライ・ジンが、喉を通
り、胃から体にしみわたった頃に、丁度良い
酔いが訪れ、私の決心を鈍らせていた。この
カウンターを離れて、アパートの冷たいベッ
トまで、たどり着くには、もう一杯のジン
が、私には必要だった。
私が、五杯目の空のショット・グラスと勘
定を置き、スツールを立とうとした時、
キャメルの男が懐かしむような溜め息をつ
き、言った。
「あれからもう、七年か。もしかしたら、自
殺だったのかもな。」
ラークの男が、目を伏せて言った。
「昭文のことか。もう忘れろ。今ではどうで
もいいことだ。」
「でも、俺たちが忘れてしまったら、沢村昭
文が、この世に生きていたっていう証がなく
なってしまう。」
「事件はもう、とっくに終わったことだ。い
や、事件なんてなかった、もしかしたら、本
当に、沢村昭文なんて男もいなかったのかも
しれない。」
二人は、それっきり、黙ったまま、席を立
ち、店を出ていった。私は、思わず、二人の
ことをバーテンダーに尋ねずには、いられな
かった。
「あの二人は……。」
「さぁ、時々いらっしゃるんですが、お知り
合いですか。何でも刑事さんらしいです
が。」
「いや、ただ、何となく……。」

私の記憶を蘇らせたのは昭文という名前
だった。沢村昭文のことは、名前と車の趣味
以外何も知らなかったが……。
一九八二年の春。湘南の波間で、十七才の
私は、昭文と出会った。翌年の十八才の春に
は、昭文のCRXー7で湾岸道路から京葉道
路に抜け、九十九里の片貝へと、波を追い求
めていた。
あれから、十三年の歳月のたった今、私は
三十才になり、ヨットパーカーや、イタカジ
を脱ぎ、トラッドを決め、毎日の生活に追わ
れていた。しかし、昭文は、一九八八年九月
十日から、二十四才のまま歳をとる事はな
かった。昭文の死を知ったのは翌日の九月十
一日の朝刊からだった。
定職にもつかず、地元の名士といわれてい
た父親を、冷ややかな目で見つめ、目的を見
失っていた昭文は、当時、すでにセカンド・
カーとなっていたCRXー7に古いサーフ
ボードとウェット・スーツを乗せたまま、東
名高速の厚木インターを少し過ぎた所の薄暗
い直線で、ノーブレーキのまま中央分離帯に
衝突した。その年の一年前の一九八七年に、
二十三才の若さで、A級ライセンスを取った
昭文らしからぬ事故に、不信を抱いた警察
は、昭文の体を切り開いた。しかし、薬物反
応はおろか、アルコールを飲んだ形跡もな
く、すんなり、居眠りによる事故とかたずけ
られた。だが、私には、事故当時、ボーズの
スピーカーに飾られた昭文のCRXー7には
不釣り合いの古いラジカセと、くちなしの花
束がCRXー7から発見されたことが、しば
らく頭から、離れなかった。
私は、追加でもう一杯のゴードン・ドラ
イ・ジンをあおると、スツールをたった。酒
場を出ると、いつの間にか雨は上がり、西の
空に、青い月が、ひとつ浮かんでいた。

by 木本 伸二