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コラム

2014-04-18

再会・其の四

再会・其の四

一九九五年七月十七日 月曜日
小雨の降る深夜。寝つかれない夜だった。
看板の消えかかった酒場を訪れた。その晩、
この酒場では、三回目の『奇妙な果実』を悲
壮感いっぱいに、ビリー・ホリデーが熱唱し
ていた。強姦、売春、感化院、ドラック……
暗いイメージとは裏腹に、彼女の愛称は、ブ
ルースを歌うレディー『レディ・ディ』。
軽やかなシェークの音が、静かな店内に響
き渡った。目の前のアンティクな薄手のカク
テル・グラスに注がれたのは、ホワイト・レ
ディだった。黒人歌手ビリー・ホリデーへの
嫌みではない。むしろ、尊敬の意味を持って
の注文だった。彼女のトレード・マークは、
白いくちなしの花だったという。
カクテル・グラスの中のホワイト・レディ
が三分の一程になった頃、バック・ミュー
ジックが、たぶん、アルバム『レディ・
ディ』からだろう『ビリーズ・ブルース』に
変わった。その時、酒場の扉が開き、二人の
男が入ってきた。一人は、三十八才前後の、
身長は六ヒィート少し、体重は百九十ポンド
前後、頭髪は濃褐色、一見、屈強には見えな
い男だった。もう一人の男、かれは年をとっ
ていた。この男に関するかぎり、何もかも古
かった。ただ、目だけがちがう。それは海と
おなじ色をたたえ、不屈な生気をみなぎらせ
ていた。
二人は何を語るでもなく、カウンターのス
ツールに腰掛けると、若い男は、オールド・
オーバー・ホールドを、老人は、モジートを
注文した。
二人は、声にする事なく、語り合い、店内
は沈黙を保っていた。
初めて訪れる酒場の扉を開く時の緊張感、
そこのバーテンダーと客のぎこちない関係
と、よく似ていた。なかには、一見のお客を
寄せつけない店もあるが、どうなのか、初め
は、みんな一見のお客なのだから。
しばらくの時間が流れ、若い男が沈黙を
破った。
「やっぱり、手にしっくりくるグラスには、
多少の重みのある奴がいい。」
老人は、鼻で笑うと、
「お前さん、そんな事より、酔って風呂に入
るのは、もうやめろ、ましてや、あんな大騒
ぎな事件までおこして。」
「私は、虚栄と幻想に生きる貴方と違い正直
なんですよ、それにしても、何故、今夜もグ
ラスを重ねるのか。」
若い男は、空のグラスを眺めながら語った。
若い男が、ダブルのギムレットを注文した
時、老人は、すでにダブルのフローズン・ダ
イキリを相手にしていた。そして、とぎれと
ぎれの会話が流れた。
「元来、酒って奴は、各家庭で造り、炊事の
ごとく、生活文化の中にあった。そして、特
別のハレの日にしか飲めず、酔うという行為
自体が神秘的だった。」
老人が、お代わりを頼みながら言うと、若い
男は、苦笑いをしながら語った。
「しかし、貴方の酒は、ただの逃避だ。逃避
目的なら、ドラックにかなう物はないだろ
う。ドラック解禁の日に酒は、この世から消
えるのかい。」
「いや、そんな事はない。ドラックは悪魔と
の契約による逃避に過ぎない。しかし、酒は
人類創世以前から存在した天からの贈り物な
んだ。ただ、酔う為の道具じゃないんだ。」
「人の生活に密接し、それぞれに歴史とドラ
マを持った文化、それが酒なんだね。」
「あぁ、だが無論、育て方、使い方を間違え
ば道を踏みはずすこともある。」
「あなたがその一例かい。」
老人は黙って、グラスをあおった。
想えば、ドラックに溺れたビリー・ホリ
デーは、酒を味わった事さえ、いや、食事を
味わった事さえ、また、本気で笑った事さえ
無かったのでは……。彼女にとって、歌さ
え、人生の逃避だったのかもしれない。
若い男がキャメルの紫煙を吐きながら続け
た。
「アルコール中毒、この言葉から、アルコー
ルにも、一酸化炭素や水銀のように毒性があ
ると勘違いしやすいが、そうじゃない。急性
アルコール中毒は別として、依存症ってやつ
は、自分の心の中からやって来るんだ。」
「気分を落ち着かせ、勇気を奮い起こさせ
る。眠れない夜にはベットへ運んでくれる。
呑まずにはいられない。」
「その通り、酒が百薬の長といわれるのは、
酒が他の薬に比べて、毒性の少なくて済むと
ころにあるからだ。」
「酒を呑んでいる時間に比べて、酒の切れた
時間の長いこと。」
「そうなったら危険だ、三日ぐらいで禁断症
状が出る。依存症のやつは毎日の呑む。一度
に飲む量や、強い弱いは全く関係ない。世間
の重圧に負けて、酒に溺れる奴が中毒になる
んだ。」
「そうかもな、酒で得る眠りは浅く、心地よ
い物ではないように、酒は何も解決してくれ
なかった。」
「酒って奴は味あう物さ、本当の酒呑みは、
酒を理解し、こよなく愛する。少量にして酔
い、生活のアクセントとして、一時の休息を
得る物なんだ。」
「お前さんが、そんな上品な酒呑みとは知ら
なかった。」
老人の言葉に、若い男が返して言った。
「貴方こそ、酒呑みの先輩として若い者の見
本であってほしいですね。」
すると老人は、遠くを見るような目つきでつ
ぶやいた。
「そういえば、あの青年……昭文とかいう青
年は、どうしたかね。今でも無茶な呑み方を
しているのかな。」
私は思わず耳を疑った。またしても昭文の
名前を見知らぬ客の口から耳にした。どうや
ら、昭文は、七年前の事故を起こす前まで、
この酒場では、常連の客だったらしい。
私はしばらく二人の会話に耳を澄ました。
「しかし、何でまた、若いのに、あんな無茶
な呑み方をするのかね。」
老人が呆れた様に言うと、若い男が続けた。
「何でも、高校時代に、バイクで事故を起こ
して、女の子一人死なせたらしいですよ。」
「ほう、ひいたのかい。」
「いや、後ろに乗せていたらしいんですが…
…、どうやら、その事故の責任を一緒にいた
ツーリング仲間の同級生が身代わりになった
とか聞きましたよ。」
「本当かい。」
「いや、良く覚えてませんが、噂ですよ、
噂。」
若い男と老人は、それっきり、口を開くこと
は無かった。
思えば、私は、昭文のことは何一つ知らな
かった。私と知りあう前、バイクのツーリン
グ仲間のいた事、そして事故を起こした事、
家族の事、ジンが好きだった事……。
私は、ホワイト・レディを一気にあおると
グラスを置いた。
そういえば、私の飲み干したホワイト・レ
ディは、一九二十年代の欧州で完成したとい
う事らしい。その頃の米国といえば、禁酒法
のもと、黒人差別の残る中、ブルースが流
れ、ルイ・アームストロングは、ジャズを奏
でていた。そして、その頃、僅か十才のビ
リー・ホリデーは四十過ぎの男に強姦されて
男を知った。
バック・ミュージックの『ビリーズ・ブ
ルース』は禁酒法が解けて三年たった一九三
六年の収録の物だという。僅か二十一才の黒
人女性の唱声が、飲み干したカクテル・グラ
スの上をゆっくりと流れ、私を酔わせた。

by 木本 伸二