← ブログ一覧に戻る
コラム
2006-05-11
その昔、サントリー角は日本ウイスキーの魂だった。
1923年(大正12)
京都郊外、山崎にてウイスキー造り開始
鳥井信治郎氏はスコットランド留学で技術を身につけた、
竹鶴政孝氏を迎え、200 万円を投じて企業化へ
日本洋酒文化のの幕が開けた
1923年、この頃の洋酒輸入総額が200 万円程だったという。今の何百億円だろうか。
或人は、国のため、この出費を減らさんがために、鳥井信治郎氏は、財産をはたいて
無謀な賭けにでたという。ウイスキー造りは長い歳月の投資を必要とし、
成功するかどうかは、神のみぞ知る熟成が要る為、商売としては、常識外だった。
そして、初の国産ウイスキーは不評。スコットランド仕込みのスモーキーフレーバーが
受けなかったらしい。
(日本発の本格ウイスキー1929年発売「白札」
ホワイトの前身に当たる)
それから数年後、寿屋は資金が底をつこうとしていた。
そんな時、角瓶が発売され大ヒットするのだった。
(名品サントリー角発売)
数年前、不評だったウイスキーが十数年の歳月で最高級品となっていたのだ。
事実、日本のウイスキーは、気候的に、20年、30年ではスコットランドにはかなわないかもしれないが、12年クラスではどこにも負けないと評価がある。
その頃、竹鶴政孝氏は、契約期間を終え、独立。
北国の北海道は余市へと、最高のウイスキーを求めた。
鳥井信治郎氏は言ったという『あの時、売れなくって良かった。』と。
鳥井信治郎氏、竹鶴政孝氏、両氏の先見の目は正しかったといえよう。
それぞれ、理想と信念を抱いた二人。他、大勢の先人の努力と、
このような世界でも珍しい幸運な成功が今の洋酒文化を築いたのである。
1923年、国産洋酒の幕開けの年、東京では関東大震災の少し前、
初の街場における本格派バーが開店した。米国では禁酒法の最中、
欧州ではカクテル文化が幕開いた時である。
京都郊外、山崎にてウイスキー造り開始
鳥井信治郎氏はスコットランド留学で技術を身につけた、
竹鶴政孝氏を迎え、200 万円を投じて企業化へ
日本洋酒文化のの幕が開けた
1923年、この頃の洋酒輸入総額が200 万円程だったという。今の何百億円だろうか。
或人は、国のため、この出費を減らさんがために、鳥井信治郎氏は、財産をはたいて
無謀な賭けにでたという。ウイスキー造りは長い歳月の投資を必要とし、
成功するかどうかは、神のみぞ知る熟成が要る為、商売としては、常識外だった。
そして、初の国産ウイスキーは不評。スコットランド仕込みのスモーキーフレーバーが
受けなかったらしい。
(日本発の本格ウイスキー1929年発売「白札」
ホワイトの前身に当たる)
それから数年後、寿屋は資金が底をつこうとしていた。
そんな時、角瓶が発売され大ヒットするのだった。
(名品サントリー角発売)
数年前、不評だったウイスキーが十数年の歳月で最高級品となっていたのだ。
事実、日本のウイスキーは、気候的に、20年、30年ではスコットランドにはかなわないかもしれないが、12年クラスではどこにも負けないと評価がある。
その頃、竹鶴政孝氏は、契約期間を終え、独立。
北国の北海道は余市へと、最高のウイスキーを求めた。
鳥井信治郎氏は言ったという『あの時、売れなくって良かった。』と。
鳥井信治郎氏、竹鶴政孝氏、両氏の先見の目は正しかったといえよう。
それぞれ、理想と信念を抱いた二人。他、大勢の先人の努力と、
このような世界でも珍しい幸運な成功が今の洋酒文化を築いたのである。
1923年、国産洋酒の幕開けの年、東京では関東大震災の少し前、
初の街場における本格派バーが開店した。米国では禁酒法の最中、
欧州ではカクテル文化が幕開いた時である。
by 木本 伸二
